死産した頃の記憶というのは、実はあいまいです。
ただ、いまでもはっきり覚えているのは、産声を聞くことはできなかったけれど、その姿は本当にかわいくて
ただただ眠っているようでした。
しばらくして、死産の原因を先生方に調べてもらいました。どうしてあの子が亡くなってしまったのか。
死産後の私
死産後も、1ヶ月ほど入院しました。
その間、ずっと自分のことを責めていました。
私の何がいけなかったのか、病気のせい?
私が何か悪いことをしたの?
私の心の状態
いまはグリーフケアも認知されていて、病院の看護士さんなども配慮してくれますが、私が経験した10年以上前はそれほど認知されてなかったような気がします。
病室を出れば、赤ちゃんの泣き声や妊婦さんとすれ違うのは、すごくつらかったです。
でも、出産後個室で過ごさせていただいたり、看護師さんが寄り添ってくれたことは感謝しています。
私自身の状態もあまりよくなかったため、すぐに退院できず1か月ほど入院が続いたので、産科病棟から血液内科の病棟へ移動しました。
退院してからも、ほぼ家に引きこもっていました。
一人になると泣いてばかり。
でも、誰かがいるときには前向きにならなくちゃ、と気が張っていました。
あの頃の私、すごく無理をしてた。
泣いてちゃいけない。
心配かけてはいけない。
一人の時はインターネットで同じような体験をしてる方の話を読み漁りました。
共感
今思うとこれが一番大事なんだなって。
死産流産体験者があつまるホームページにもたどり着き、読みながらいっぱい泣いてました。
私の体の状態(血小板の状態など)
出産後、妊娠高血圧はすぐに落ち着き、腎臓などの数値も徐々に戻ってきました。
血小板も、妊娠状態が終われば数値が戻るのでは?と言われていましたが、一向に戻らず。
妊娠前は8万ほどあった血小板も、出産後も3万前後にしか戻りませんでした。
※ちなみに
3万前後で再び妊娠するというのは厳しいかなと考えていましたが、たまたま婦人科でもらった漢方薬が私に合い、なんと5万まで回復することができました。
また、血小板が戻らなかった原因なども2回目の妊娠時にいろいろわかったことがあります。
これはまた別の記事にしたいと思います。
また、甲状腺の数値も悪くなっていたり(その後1年くらいで回復)、この時の妊娠で、私の体の中はだれも予期できない状態になっていました。
死産の原因の一つでよくあげられる、抗リン脂質抗体症候群の可能性などもありましたが、近い状態だけど違う。
妊娠すると体がおかしくなる・・・そんな風に思えて、とても悲しくなりました。
この時の妊娠では、はっきりとした原因はわかりませんでした。
赤ちゃんのこと(死産の原因など)
産婦人科の先生には、「解剖すればわかることもあるけれど、どうしますか?」と、問われました。
いくら亡くなっているとはいえ、私はそれを望みませんでした。
それならば、そのままの姿を目に焼き付けておきたかったのです。
もちろん、原因はできれば知りたいけれど、それで必ずしもわかるものではないからです。
こどもよりも私に原因があることも確信していました。
できることとして、臍帯(へその緒)や胎盤などを検査していただきました。
赤ちゃん、たくさん抱っこしました。
離れたくなかった。ずっと一緒にいたかったです。
小さな箱に入った息子はまだ寝てるようでした。
まだ、産着なども用意してない時期だったので、母に買ってきてもらいました。
一緒にお散歩したり、成長を見守りたかったな。
臍帯に血栓?詰まりがあったことが判明
胎盤とへその緒を病理検査していただいた結果、所々に血の塊が見られたということでした。
へその緒は血栓ができたため、赤ちゃんに十分栄養や酸素がいきわたっていなかったのではと推測されました。
そう、妊娠5ヶ月のころ、小さいといわれていたベビーは
血液が十分にいきわたっていなかったため、成長が遅れていたんです。
妊婦検診だけでは、そこまでのことはわかりません。
まして、ITPなのに血栓ができやすくなる状態というのは、なかなか考えにくいのですが・・・やはり予想できないことが起きていた。
血栓ができてしまった原因
その原因を探るため、退院後に当時不育症などのを専門で診療されていた大阪母子医療センターで、病理検査の結果とともに検査をしていただきました。
でも、結局そのときの検査では、血栓ができたのが原因で死産になったことはわかったものの、血栓ができる原因まではわかりませんでした。
へその緒に血栓ができなかったら、血液を赤ちゃんに送ることができていたらと思うと、本当に悔しい。
でも、今回のことがなければ誰もそれはわからないことだった。
重い現実でした。
精神的にも肉体的にもなかなか回復できずに、数年。
10年後に、再び赤ちゃんを授かりましたが、妊娠するまでも妊娠してからも、不安でいっぱいでした。
でも、先生は最初で最後だから頑張ろう!という励ましと、この時の経験と医療の進歩で、のちに娘を出産することができました。